思考はどこからくるのか

 10日ぶりにブログを書いている。出だしはなかなか良かったのだけど、やはり続けるのは大変だ。それでもやっていこと思う。厳密でなくてもいいので、できるだけ1日1つを維持したい。今月はもう無理だけど、今日から連投することで数だけ稼いで帳尻を合わせたい。今日時点で12本欠落しているので、今月はあと5日として、30、31日はおそらく使えないので、残り3日で、およそ17本投稿しないといけない。1日に5、6本になる。可能だろうか。かなり大変な仕事に思える。何しろ文字数が多い。今4Kのモニターで表示していて、大体これで、編集画面で上から下まで埋めることを目安としている。どうやら3000文字くらいになるようだ。それが6本なので18000文字必要になる。コードにしたら、1行40文字くらいとして、450行くらい。コードと文章ではまったく質が異なるので、あまり意味はないが、雰囲気はそんな感じになる。不可能ではないような量だ。ただ、こればっかりやっているわけにもいかない。1本30分で、3時間程度で終わらせられたらいいなと思う。ちょっと厳しいか。

 今困っているのは、ネタがないということだ。そんなはずはないのだけど、思いついたやつを下書きにキープしていって、まだ10本程度しかない。もういっそなんでもいい。コーヒーの話とか、ダイエットの話とか、禁煙の話でもいいんではないだろうか。とにかく数を稼ぎたい。

 数を稼ぐというと、プログラムをコードの行数で見積もって水増ししているようで、悪い習慣なのだろうか。そんなことはないだろう。さっきも書いたけど、文章とコードは全く質が異なる。無駄に長いコードは悪質だ。短すぎてもいけないが、十分に読みやすく保守しやすいコードである以上の冗長さは取り除くべきだ。文章の場合そうとも言えない。すべての文章は何かしら文学的な性質を持っている。情報が単に表示されているだけでは良い文章ではない。読み手に伝達したいという意図があるから存在しているのであって、そのためには、文章を工夫して、強調したり、繰り返したりしないといけないことがある。物書きになりたいとは全く思っていないし、このブログでは完成された文章を書こうという目標は立てていない。

 このブログで何をやろうとしているのかというと、前にも書いた気がするけど、何を考えているのか自分でも分からない、思考を書き出すためだ。文章にして初めて自分の頭の中が見えてくるような気がする。大体、こうやって書いていることというのは、常にそういう風に考えているわけではなくて、文章を書きながら思いついたことを書いていっている。文章にすると陳腐にみえるようなことは排除していっている傾向がある。それなりに見栄えのする文章に作り変えている。それって偽物の思考じゃないのかと言うと、そんなことはないように思える。普段、何もしていないときはおそらく何も考えていない。何か活動をしているときには何かを考えているのだろうか。それも怪しい。プログラミングをしているときは多分プログラミングの範囲内でしか考えられていない。そこに落とし穴があるように思う。プログラミングは、それ自体が目的になることもあるが、本来は現実の問題を解決するためのものだ。目の前のコードに集中したり、プログラム自体に集中したりするあまり、視野が狭くなっている可能性がある。一度、距離を置いてやるべきことを見直す必要がある。頭の中だけで整理をするのは上級者向けだ。こうやって文章にしたり、なんか別のツール、マインドマップとか有名だけど、そんなんでも、何でもいいからちゃんとした形にすると良い。

 今さっきちらっと書いた、ここに書いているのは偽物の思考ではないかという疑念をもう一度考えてみる。確かに、文章にする前の段階では今ここに書いているようなことを考えたことがあるという自覚はない。ただ、思いつくままにキーボードを叩きながら出てくる文章を吐き出しているだけだ。現在進行形で文章が作られている。この文章はどこから出てきているのだろう。かろうじて言えるのは、他人によって強制的に書かされているものではないということくらいだ。本当だろうか。どこにも公開するのでもない、秘密のテキストファイルとして書いているのならともかく、ここは一応パブリックな空間で、理由はどうあれ、誰かに読まれることを想定しているはずだ。すると、読み手がどのように解釈するかということを含めて文章が生成されているところもある。とても人に言えないようなことを書いたりはしない。

 このブログの場合、何かを伝えたいという意思はほとんど含まれていない。単に人の目につくところに文章を置くことで、モチベーションを高めようと利用しているだけに過ぎない。それは過小評価しすぎかもしれない。おそらく人の目につくところに置くことで、多少はマシな文章を組み立てようという力が働くところも少なからずある。むしろ願ったりだ。文章の構成は人の読める程度にうまくできている方がいい。これは表現の違い、表面的なところでの話となる。思考そのものの出力である、文章の中身がどこから来るのかをまだ書いている本人が理解していない。だんだん、自分で書いている文章が偽物の思考なのではない、ということに自信がもてなくなってくる。誰が読んでも無難なように、本心を偽っているのではないかという気がしてくる。それは現実のコミュニケーションで人間が当たり前にやることだ。社会性を持った生物は、属するコミュニティで培った習慣に従って、さしあたりのない範囲で活動するはずだ。いきなり誰でも出会い頭にプログラミングの話をしたりはしない。こんにちはとか言うはずだ。そのような、常識とでも言って良い範囲に縛られたからと言って必ずしも偽物の思考だと結論づけることはできない。

 何か思いもよらない方向に話が流れてきた。書き始める前は全くこのような内容にしようとは思っていなかった。なぜこういう方向に話が進んだのか、なかなか興味深い。思考はどこからくるのか、など、典型的な哲学の領域ではないか。今までそんなことを考えたことはないのだが、不思議だ。こうやって文章にしていくことで、全く自覚していなかった、新たな発見があることは少し前から気づいていた。今回の場合で言うと、思考とは何かだ。本気でこのことを追求しようとはあまり思っていない。でも、せっかく気づいたことなので、気には止めておこうと思う。予め用意された入口、今回の場合は哲学になるのだろうけど、そこの戸を正面から叩くのではなく、こうやって自分で掘り下げて発掘するという行為は面白いかも知れない。

 何も期待せずに書き始めた投稿だったが、新しい、ちょっと高等な目的ができた。それは、文章化することによって、今まで気づかなかったことを採掘するということだ。ただ、これは最初から求めてはいけないようだ。書き続けていくことで自然と見つかるもので、そのときを見逃さずに捕まえられればそれでいい。

 

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です