本の所有について考える

 一昨日と昨日で、来年の読書計画を立てた。2023年中に読み終えたいものをピックアップして、小説を除くと12冊となった。十分少ないように思える。所有しているもので、未読のものがおよそ1000冊あるので、1%ほどにしかならない。このままペースで行くと、今所持している本を読み終わるのに100年かかることになる。未読の本が溜まっていると、精神衛生上も良くない。何らかの対策が必要だ。

 未読の本を減らす一つの方法は、速読と呼ばれる読み方で、次々にページをめくっていって、大体の様子を把握してしまうことだ。そうして、とりあえず読んだとマーキングしてしまう。何度かこの方法は試している。一旦読み終えたことにして、じっくり読む価値があるかどうかを判断する。読む価値があるなら完了とせずに、未読のままにしておく。そして、いつか読むと記憶しておく。この方法はあまりうまく行かなかった。ちゃんと読んでないのに、読んだとしてしまったものと、きっちり読んだものとが入り混じって、わけがわからなくなる。それに、眺めるようにしてページをめくっていっただけでは、本当に読むべき価値あるものなのかどうか、判断が使いこともある。それよりも、わざわざお金を払って購入しているので、そのときに少なくとも一度は読む価値があると判断しているはずだ。それを、未読の本が溜まっているからと読む価値がないとしてしまうのは、未読を減らしたいから無理にそう判断させられてしまっている可能性が高い。

 速読は合わない。数をこなすこと自体には意義を感じない。読んだからには何かを残したいと思う。しかし、今のペースでは来世まで本を抱えていかないと読み終えることは不可能だ。もう、思い切った決断をしてしまう方がいいかも知れない。思い切って、何年も放置しているような本には引退してもらうことだ。本を買うことよりも、捨てることは簡単なことではない。購入するときに選別しているので、不要なもの、無関心なものというのは殆どない。何かしら読みたい部分が残されている。それらを回収しないままに手放す決断をするのはなかなか難しいことだ。多分、人生の最後までずっと持ったままでいるんだろうなというようなものまで、吟味する必要はない。それらはそのままでいい。だめなのは、それらと同列に本棚にそこまでは必要ないと思うような本が入り込んでいて、同じ1冊とカウントされていることだ。これがおかしい。今、未読がおよそ1000冊あるという情報が利用している本棚サービスで分かる。この1000冊という数字に本当に意味はあるのだろうか。1回読んでお終いの本、1日で読み終わる本と、最後の最後まで手放さいであろう本を同じ1冊としてカウントするのはやはりおかしい。

 あと、未読をどうやって消化するかという問題ではないのだけど、本を持ちすぎるのは良くない。読み終わったら、一つの判断を下すべきかも知れない。もう一度読むことがあるだろうか、読みたいと思うだろうかという判断だ。未読の本が山ほどある中で、2回読みたいと思えるようなのは貴重だ。こういうのは持ったままにして、本棚に飾っておいても悪くない。大体、1冊の本を通して知っていることしか書いてないというような本は殆どない。最初に選択する場面でそういうのは除外しているはずだからだ。その情報が本当に価値のあるものだった、十分に良い形で入手できる情報なのかどうかを判断するのは結構難しい。もう一度その情報を読みたくなる可能性は捨てきれないことが多い。そのしがらみを振り切って、なんとかして別れを告げないといけない。決断ができないまま、ずるずると持ち続けてしまうのはあまり良くない。たとえ一度読んだので、消化できていると思えることがあっても、まだ持ち続けているのならば、それはまたどこかで参照することがあるかも知れないという気持ちがあるからだ。

 コレクションが目的になってはいけない。関心のある分野の本が本棚にあると、確かに安心する。必要ならばすぐに手を出して、その情報を仕入れることができるという安心感だ。簡単な情報ではなく、熟練度を必要とするものでも、すぐに習得できるようなものではなくとも、いつかは、ちゃんと時間をかけて取り組む準備ができていると安心できる。コレクションのようにどんどんと本が溜まっていくのは、その安心感を得るためだと思う。何も準備ができていないと、ガイドブック無しで海外旅行をするような不安がある。ちょっとした保険のようなものだ。いつからか、本を所有しているからその分野の入口に経っているはずだと思いこむような習性が出てきているように思える。

 本を持ちすぎることの何が悪いのだろう。 なにか弊害はあるのだろうか。まず、本棚のスペースを浪費する。本棚にいっぱい本が並んでいるのは、良い面と悪い面がある。きれいに、必要な本だけが並んでいるのならば良い。無秩序に、どうでもいいようなものまで乱雑に並んでいたら悪い。部屋のインテリアとしての効果を無視しないほうがいい。美的感覚に反するものが並んでいれば、多かれ少なかれ、何かしらその場での活動に影響をもたらす。必ずしも何もないのがベストというわけではないが、集中力を乱すような、見にくい状態にしておくのは良くない。また、脳みその記憶領域を浪費する。あの本は少有していたとかしていないとか、何かしらにつけてついて回ることになる。亡霊のようなものだ。もっといろんなことを知りたいと思うのは結構なことだ。しかし、やり過ぎは良くない。程々なところでとどめておくよう自己制御できないと、いつまで経っても本に頼って、自分で考えて答えを出すということができなくなる。記憶領域を浪費すると、本来は自分で考えれば良いものを、考えるのに使われる領域まで、本の所有状況を管理するプログラムに使用されてしまっていて、本来の自然な形で回答を出そうとしなくなってしまう。記憶領域はクリーンに保っておかなければならない。

 自分にとっって、もっと大事なことは、読書自体が目的になってはいけないということだ。読書家になろうとなどしていない。本を読むというのは、単に情報を引き出すというだけでなく、その行為自体が一つの体験として価値を持つ場合もある。それは貴重な役割ではあるのだけど、自分には必要ない。もっぱら体験をすることによって得られる結果の方が大事だったりする。ゲームをプレイするのと、本を読むのは全然違ってくる。ゲームをプレイしているときは楽しいと感じられないといけないけど、本を読むときはそこまでは求めていない。もちろん、楽しい読書であればそれに越したことはない。ただし、それが再優先事項ではない。楽しいの質も色々ある。内容自体は楽しいものを意図して書かれていなかったとしても、新たな情報が手に入る、高揚感のようなもので楽しいと解釈できるようなことも多い。そういう解釈を含めると、最初は読み終わったあとの結果を重視しているのだけど、読んでいると楽しいと感じるようになることは多い。そういう感覚の中毒にならないように気をつけたい。

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