再開と書いておきながら

 もう4月も終わりだ。4月1日に再開すると書いておきながら、この1ヶ月間、一本も書かなかった。いっそ、きっぱりブログはやめてもいいんじゃないかとさえ思える。しかし、そう慌てる必要もないだろう。まずは1日1本という目標を修正することにする。毎日やらないといけないとなると、1日遅れただけでやる気がなくなってきて、1週間も滞納すればもう取り返すのは無理だ、となって、いっそ完全に放棄するかという心境になる。なので、下方修正することにする。

土日に1本ずつくらいでどうだろう。1週間に2本、1ヶ月に8本くらいといったところだ。これなら可能なように思える。そもそも、毎日というと、書くことがない。1週間あれば何かしらネタができるだろう。それをストックしておいて、週末に一気に消化すると行ったスタイルだ。ネタがあればそれほど苦痛に感じることもなくなるだろう。実際のところ、今月、あ、これについて書きたいな、と思うことはちょくちょくあった。そう思ったところで、どうせもう今月は全然こなせていなから、と実行に移すことはなかった。

それだけが問題でもない。あまりにノルマにしている文章量が多すぎるのも原因だ。 4Kモニタで編集画面を開いて、画面いっぱい分を目安としている。これは大体、日本語の3000文字になる。400文字の原稿用紙にすると、8枚分くらいだろうか。結構な量となっている。数行で書き終わるところを、なんとか話を広げて文字数を稼がないといけない。だから、すぐに書いてしまおうという気に慣れない。でも、これは維持しておきたい。短い文章で終わらせてしまうと、あまり深い考察ができずに終わってしまう。文章を書きながら思考を展開するということに少しの価値を見出している。文字にするまで思ってもいなかったことがひらめくことがある。短くしてしまうと、そういう体験ができなくなるので、余計に価値がなくなってしまう。

まだ3分の1くらいしか書いていないのだけど、もうほんとに書くことがない。何を書くべきかというようなテーマではもう何回か書いてきていて、同じことを繰り返すのは避けておきたいので、書く範囲が絞られてしまっている。ふらふらと思考を揺らして、たまたま引っかかった方向へ向かうように進めていくというやり方ができなくなってきている。もうなんでもいいから、さっさと文字を埋めて切り上げてしまいたい。

いつもは何も書くことがないと言いながら、何かしら掘り出してきて広げることができていたのだけど、今回は本当に何もない。話題を変えてしまうのも一つの手だが、4月の終わりを飾る1本なので、今月は何も書かなかったということを強調するためにも、無意味な文章で終えたい。意味のないこだわりだ。プログラミングでは、悪いコードは悪く見えるようにしようとというプラクティスがある。それに無理やり当てはめると、何も意味のない文章は、意味のないように見せるのが良い。飾り立てるために興味深いテーマを持ち出してくるべきではない。こうして意味のない文章で、無意味さを強調するべきだ。

ソースコードと違って、文章はそれほど良し悪しがひと目で分かるほど構造化されていないところがある。要は、実際に読んでみないとその文章が良い文章なのかどうかわからないということだ。無意味な文章であっても、書いているときほど読むときには無意味であることが明らかとならない。今、書きながらこの文章はまったく無意味だな、とひしひしと感じている。しかし、おそらく、後から見たときはそうともならない可能性が高い。へえ、こんなことを考えていたのか、と、まるで真剣に執筆に取り掛かっていたような誤解を与える可能性がある。これは、とりあえず文字数が埋められているから、真面目に取り組んだのだと思わさせる効果があるためだ。ほんとのところは、全然そんなのではない。もう、とにかくさっさと文字数を稼いで、この作業を終わらせてしまいたいという気持ちしかない。そこに何かしら意味を見出そうとするのは、間違っている。早い話、文字数の制限がなければ、今日は何も書くことがない、の一言で終わる内容だ。3000文字というノルマのせいで、後で読み返したときに、過去の自分を大きく見せてしまうような、良くない効果がある。

それでも尚、3000文字のノルマは外したくない。一度やめてしまうと、もう長文を書けなくなるのではないかという不安がある。結果としてできた文章には価値がなくとも、文章を書こうとする姿勢は評価するべきところがある。そう考えると、たちの悪い学校が罰として与える反省文と同質な感じにも思えなくもない。長けりゃいいというものでもない。反省文などの劣悪な学校が与える課題には、健全な成長に対して悪影響しかない。今、この文章を書いているのは誰に指示されたものでもないのだが、もしかしたら自分で自分に罰を与えているのに等しいのではないかという気がしてきている。

そのような判断するのはちょっと早い。なぜなら、今回はたまたま何度も使いまわしているテーマである、このブログの文章を書くことについて書いているから、もう飽きてきていて、楽しみが見いだせないからだ。何かしらもっと面白い、興味のあるテーマであったなら、これほど苦痛には感じなかっただろう。楽しくなければ、やはり反省文にも似たような感情で文章を書かないといけなくて、それは悪影響にもなり得るだろう。

ようやく終わりが見えてきたところで、一つ答えが出たかもしれない。それはとてもシンプルなもので、楽しんで書かないといけない、ということだ。楽しいという感覚を軽視してはいけない。楽しくないことをやるのは、ほとんどにおいて非効率的になる。創作活動においてそれは特に顕著だ。楽しいイコール愉快とか笑えるというわけではない。楽しいと感じるのは、何かしら感情に触れるところがあるときだ。ちょっと解釈が広い気もするが、その方が正しい。楽しいの反対はつまらないだ。苦痛に感じるときがあったとしても、必ずしもそれは対極にあるとは言えない。確かに、今回の執筆は苦痛ではあったが、つまらないという感じではなかった。今の所、ブログを書くのがつまらないと感じてはいないので、まだ続行してもよい。できれば、苦痛からは解放されたい。なるべくそうならないようなテーマを選ぶことにも気をつけたほうがいい。理想的には、文章を書くのが楽しくてたまらないところまで上り詰めることができるといい。それはちょっと欲張り過ぎで、もうちょっと現実的なところから言うと、なるべく楽しそうなテーマを選択することから始めよう。今までの目標であった、1日1本では余裕がなさすぎる。選択の余地がないので、苦痛になるようなテーマを選択してしまっていた。これからはそれを正していけば、なんとか持ち直すことができるに違いない。

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