ゲームプレイの進化

 Linuxでのゲームプログラミングについて書いてみよう。このテーマは自分にとって重要なので、定期的に考えてみるのが良さそうだ。

 ゲームプログラミングの前に、ゲームプレイについて考えてみることにする。一口にゲームといっても、その形態や規模や目的やによって様々だ。コンピューターを使わないゲームももちろんある。しかし、もっぱら関心があるのはコンピューターを使ってプログラミングで作ることができるコンピューターゲームなので、ここで単にゲームといったら、コンピューターゲームのことを指しているものとする。

 ゲームの需要や市場は昔に比べてはるかに拡大してきて、同時に多様化している。ゲームプレイヤーの数は増加しているように思える。一方、ゲーム開発環境が整備されてきたために開発の敷居がぐんと下がって、リリースされるゲームの数も増えてきている。どちらかというと現在は供給過多で、プレイヤーを取り合うような状況にあるように思う。その要因は何なのかということには触れないでおこう。ともかく、ゲームをプレイする人も作る人も増えてきていて、今も傾向は続いているという事実だけを受け止めておこう。このことは肯定的に受け止めることができる。昔はもっとよかったなどとは思わない。テクノロジーの発展によって、昔は技術的に実現不可能だったことが可能となったり、製作者の多様化によって思いもしないような発想のゲームが登場したり、プレイヤーの多様化によってその要求を満たすために、多様なゲームが作られたりする。一部のマニアだけに与えられた特権のような楽しみではなく、多くの人がゲームを楽しむことをできるようになるのは、良いことだ。

 ちょっとポジティブ思考すぎるかもしれない。それに、自分は何も貢献していないのに良いとか悪いとか語るのもおかしなことだ。しかし、ゲームをプレイする人が増えて、社会的にも受け入れられるようになったりする状況を好ましく思っているというのは本心だ。この場合は社会的という言葉に悪い含みは入れていない。社会的に受け入れられているという具体的な状況について、何をイメージしているかと言うと、例えばeスポーツを始めとする舞台でプロゲーマーが活躍している状況だ。なぜこれが社会的なのかというと、生産性があるからだ。生産性とは富を生み出すということだ。社会では生産性のないものよりもあるもの残そうという力が働いている。プロゲーマーのプレイを中心に、名誉と報酬を巡って生み出されるストーリーや演出は、ゲームをやる人はもちろんやらない人にも魅力的であって、惹きつけるものがある。これはアスリートや棋士が社会的に果たす役割と何の違いもない。それらのような伝統的な勝負師の世界の見世物のように完全に成功しているかどうかまでは知らない。少なくともファミコンしかなかった時代に、将来プロゲーマーになりたいと言う狂気じみた少年少女が拒絶されたほどには、現代で将来プロゲーマーになりたいと言っても狂気だとまではみなされないではないだろうか。

 eスポーツはゲームの中でも特殊な環境だと言える。もっと多くの人が楽しんでいるゲームは、プレイすることによって直接的な報酬を得たり名誉に繋がるものではないものが多い。極端な例をあげると、マインスイーパーでハイスコアを競っている人は、おそらく何も見返りは求めていないだろう。オンラインで世界ランキングがあったりすれば、もしかしたら話は違ってくるかも知れないが、あまり一般的ではない。大体は、デスクワークに飽きて眠くなったときに、気晴らしにプレイしたりして、ついついやり込んでしまうということが多い。戦略的にどのようにやれば上達するかということについて考えを巡らすかも知れない。それでも、そのことで報酬を得ようと考える人は、いたとしてもごくわずかだと思う。大体、それなりに長いゲームの歴史の中で、世に送り出されてきたゲームはこのようなものから発展してきた。このようなゲームの特徴は、失敗しても失うものが少なく、成功したときにはそれなりの達成感が得られる、という特徴がある。単純なゲームの場合、失うものというのは、大体そのプレイに費やした時間と作業のみになる。このリスクが0だと、成功したときの達成感というのが0に近くなってしまうので、望ましくない。ゲームをプレイするのは、クリアしたときの達成感だけがゲームの目的ではない。ただゲームの世界の中に入っていくだけで没頭できるというのがある。マインスイーパーの場合は、地雷原を慎重に探索するという、現実ではなかなか味わえない緊張感のある世界を味わうことができる。目の前の作業から逃れて現実逃避したい場合にマインスイーパーを起動してしまうのはそういう理由もある。

 ゲームの世界にどれだけ入り込んでいけるかを表す感覚は、没入感などという。ゲームの面白さを決める要因としては重要だ。古典的にはゲームのグラフィックスやサウンドがその大きな役割を担ってきて、よりリアリスティックに、あるいは表現豊かになろうとしてきたのは、それによって没入感を高めようという狙いが見られる。ゲームのハードウェアの進化は、より高い表現力を求める力に引率されてきた。現在のゲームはマインスイーパーのようなゲームとはかけ離れているように見えるのだが、没入感という点においては、根っこは同じところにあるとみなしてもいいだろう。その時代において、ゲームはハードウェアとソフトウェア技術の限界で世界を構築して、プレイヤーを引き込もうとする。他のゲームと差別化するためには、もっとこうこうしたい、という要望がうまれ、すぐにハードウェアの限界に達してしまう。そして、新しいハードウェアが生まれ、ハードウェアによって制限されていたソフトウェア技術が解放されて、新しい表現が可能となる。この繰り返しによって発展してきたわけだけど、どうやらこの進化モデルは大成功を収めているようだ。最近のゲームをプレイする人で、現在のゲームの表現力に驚かされたことのない人などいないだろう。しかも、この進化はまだとどまることを知らない。最先端のゲームの技術を研究開発しているリーダーたちは、おそらく、現実世界と区別がつかなくなるようなところまでを視野に入れているのではないだろうか。それには、ハードウェアとソフトウェアという技術的な進化だけで達成できるわけではない。いつかは、現実世界と区別できなくなるような表現が可能な技術が手に入ることは期待できる。そのとき、その世界に移り住むことができるかどうかはまた別問題で、現代社会ではまだ良しと見なされないだろう。先にゲームが社会的に受け入れられるようになってきたのを肯定的にとらえているという理由がそこにある。まだ、生産性のないゲームプレイに没入することまでを良しとする風潮ではないが、一部は良しとされるようになった。テクノロジーの進化と同様に、規範もゆるやかに進化していくのならば、いずれ受け入れられる時代が来るかも知れない。

 Linuxとプログラミングについて書くつもりが全然違う方向に行ってしまった。今から取ってつけたように書くのも、場を取り繕うだけになってしまうので、今回は書かないでおこう。またこのテーマは何度も再利用するだろうから、その時にとっておくことにして終わる。

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