PC再生

6月に入ってから禁煙を始めたこともあって、気を紛らわすために、ちょっと違うことに取り組んでみた。何をしていたかというと、部屋の隅で冬眠している、古いPCを再利用できないかを実験していた。ターゲットとなるのは6台ある。そのうちの新しい方の2台に絞ってやることした。一つはPhenom II X3、もう一つはCore 2 Quad Q6600のものだ。X3は2010年、Q6600は2008年頃にリリースされたもので、およそ15年ほど前のCPUだ。X3は家族が使用していたもので、Q6600は自身が過去に使用していたものだ。どちらも自作PC、つまり、パーツ単位で購入して組み立てたものだ。リフォーム前の状態では、Windows Vistaがインストールされていた。これは、最後に購入した、また最後に利用していたWindowsのバージョンでもある。それから完全にLinuxに移行してしまった。

まず、現状のVistaに入っているデータや、動作状況、パフォーマンスを確認してみる。Vistaは削除してしまうかどうか迷うところだった。Q6600の方で、1台は使えるようにしておくことにした。こちらは唯一のSSD (128GB)にインストールされている。動作はそこそこ軽快だ。しかし、Vistaでインターネットに繋ぐのも、何か生産的なことを行うのも、時間を浪費しているだけのようで気が進まない。一方で、最後のWindowsとして、残しておきたい気持ちもある。本当に必要になることには、まずならないだろうから、きっぱり消してしまった方が心理的にも物質的にも健全であることに違いはない。もし、万が一必要になったときは、そのときに再インストールするようにすれば良いとも思われる。やっかいなのは、インストールが非常に面倒だということだ。自動ライセンス認証に失敗すると、電話を通して30桁近くのキーを入力する手間が発生する可能性があり、そんなことはもうやりたくない。そういうわけで、一応残しておくことにする。その他のストレージとして、1TBのHDDが3つ接続されている。ここにLinuxをインストールしていくことにする。このPCのためにSSDを購入する気にはなれない。

Q6600の方は、事前に問題があることを認知していた。1年くらい前から、使用中に突然電源が落ちて、リセットがかかってしまう現象が発生している。Manjaroをインストールして、Vistaの問題で発生しているのかどうかを特定しようとした結果、そちらでも落ちるので、ハードウェアの問題だということが分かっている。今回、その原因を完全に特定できた。使用しているPCケースのファンが小さめで、騒音がうるさく、もう一つ、お亡くなりになったPCのケース、これもやはり相当古いものではあるが、が気持ち静かなので、そちらに移すことにした。その作業中に、CPUクーラーがぐらついていた。作業中にはずみで外れてしまったのかと思っていたが、なんと、4つの取り付けピンのうち一つの爪が折れてしまっていた。おそらく、そのためにCPUが冷却されず、MBの保護によって落ちていていたのだろう。これはありがたいことだった。おかげでCPUもMBもお亡くなりにならずに済んだ。その爪の折れたCPUクーラーは破棄することにして、代わりのものは用意がないので、購入する必要があった。Q6600はLGA775というソケットになっている。PCをショップに言ってみると、運良く一つ、手頃な値段で入手することができた。ヒートシンクが巨大で、ケースのスペースギリギリで、取り付けになかなか苦労した。無事取り付けることができたようで、適当な負荷をかけながら試運転してみると、もう落ちることはなくなった。

準備は整ったので、Linuxをインストールしていくことにした。ここでも厄介な問題に遭遇した。X3の方はインストーラーのライブ環境のブート中に停止する。Q6600の方は、ビデオの信号がなくなり、No Signalと表示され、ディスプレイが電源オフになる。それぞれ、別の原因を抱えていた。X3の方は、DVDメディアからインストールしようとすると失敗するようだ。USBスティックメモリからインストールすれば、大体はいける。MXとUbuntuをインストールすることに成功した。Q6600の方は厄介で、かなりの時間を費やした。古いハードウェアにも対応していそうなディストリビューションを片っ端から試していったが、同じ症状で一つとしてパスしない。諦めて、FreeBSDをインストールしてみることにした。こちらはうまくいく。FreeBSDのセットアップを続けていくと、Nvidiaのドライバをインストールするステップまで来た。FreeBSDでも、プロプライエタリなNvidiaのドライバがパッケージマネージャーで提供されている。取り付けてあるビデオカードはGTX460というものだ。2010年ごろに購入している。Nvidiaのドライバにはいくつかバージョンがあって、順番に試していくと、390というバージョンのものでうまくいった。これはかなり古いバージョンだ。それ以降のものでも以前のものでもうまくいかない。うまくいったといっても、完璧ではなく、仮想端末の表示がめちゃくちゃになる、悪い副作用もある。これの解決策は見つかっていない。ともかく、一応はFreeBSDが使える環境になった。ここで、一つ思い当たったのが、LinuxのインストーラーがNo Signalになるのは、ビデオカードのドライバが問題ではないかということだ。今回の最大の注意点はそれだった。Linuxのインストーラーのブートオプションにnomodesetというを加えてやると、見事に、ことごとく起動する。どうやら、インストーラーが使用するオープンソースのNvidiaドライバnovaeauが、このGTX460をうまく扱えていないのではないかと思われる。

nomodesetを指定することでインストーラーは使えるようになった。よってインストールも可能になった。インストールした後も重要な作業が残っている。まず、初回起動時には、GRUBのオプションで、やはりnomodesetをしてやらないといけない。その後で、システムにプロプライエタリのNvidiaドライバをインストールする。バージョンはもちろん390のものを使用しないといけない。厄介なのは、ディストリビューションによってそのインストール手順がまちまちであるということだ。何をやるべきか分かっていないとすぐに混乱する。Nvidiaのサイトで配布されているインストーラーを使用することもできるが、これは推奨される方法ではない。ディストリビューションによって提供されるものを利用するのが望ましく、利用できない場合の最後の手段としておく。

Q6600でやるべきことは明らかになった。面倒ではるあるのだが、もう迷うことはない。すでにいくつもDVDに焼いておいたので、それを利用したい。1TBのHDDのパーティションを100GB程度に細かく切っていく。8つ程度のOSをインストールする。実用的には、そんなたくさんのOSをインストールしても運用しきれないので、意味はないが、実験目的でやってみることにする。結果、2つは不完全な状態になったものの、ほとんどはきっちり利用可能な状態に持っていくことができた。最終的には、11個のOSが共存するシステムができた。

今回の体験を通して、GRUBの扱いと、ディスクの扱い方に少し自信が持てるようになった。通常の利用においては、1つのPCに10個もインストールする機会はそうあるものではない。扱いづらいシステムになってしまうし、あやまって他のOSの領域に干渉してしまい、いつ破壊してしまうかわからない、不安定な状態になる。完全に実験目的のPCだと割り切ってやらないといけない。そんな機会はあまりなかったので、GRUBもディスク管理ツールも最低限の利用しかしたことがなかった。実際に運用しているPCでは、現状を破壊してしまわないように、慎重に取り扱う必要があり、もともとそうあるべきツールではあるものの、その程度の利用だとあまり理解を深めるための体験ができない。きっちり理解するためには、破壊してしまっても、そんなに被害が出ない、隔離された環境で思い切った実験する必要がある。なおかつ、実際の利用では必ずリスクが伴うので、実験においてもそれを反映して、完全にリスク0ではなく、失敗したらやってしまった感を味わえるようにしておきたい。今回の場合、これまでの作業が無に期するなる程度のリスクがあり、ちょうどよい。なるべくならそんな失敗はしたくないけど、やらかしてしまったら仕方ないと割り切れる。

GRUBとディスクについて、そこそこの経験値を得ることができた。しかし、どちらも古いPCの環境でやったもので、レガシーなBIOSとMBRでの実験であった。現行のPCではUEFIとGPTであるのが普通だろう。こちらの経験値稼ぎもどこかでやっておきたい。

もともと、眠っているPCの再生を目的として始めた作業であった。古いPCではあるが、極めて古いわけではなく、なんとか利用できるくらいの性能をもったPCではないかと考えていた。インストール作業を繰り返しているうちに、そのような甘い期待は裏切られることとなった。すこぶる動作が重い。Q6600の方は、どのディストリビューションでも、軽量なantiXのようなディストリビューションでも、満足のいくレスポンスが得られない。特にFirefoxの起動が遅い。システムの起動も遅い。システムの更新も遅い。もはや約15年前の構成なので、仕方のないことではある。むしろ、まだ動くことに感謝をするべきなのだろうか。X3の方は、MXしか動かしていなけど、なかなか良いレスポンスが得られることに満足している。

以前はよく、古いPCにLinuxをインストールして再活用しよう、というような見出しの雑誌などを見かけたものだ。もはやそのような状況ではなくなっているのではないだろうか。現代のLinuxディストリビューションは、そのような古いハードウェアのためにチューニングされていない。確かに、軽量なディストリビューションを使えば、かなり古いPCでもデスクトップ環境が整う。しかし、重要なWebブラウジングに必要とされるスペックが上がっていて、15年前とは全く異なっているので、いくらデスクトップが軽快に動作しても、Webが快適でなければ、有用なデスクトップ環境とは言えないものがある。Q6600は15年前のCPUだが、もうひとつ古い、Pentium 4やAthron XPといったものもある。これらを引っ張り出してきて再利用を試みることに、実用的な意味はあるのだろか。どう頑張っても、Webブラウジングのレスポンスを満足するものにするのは無理だろう。また、電源効率も悪く、地球に優しくない。実験目的なら良いだろうという考えも改めたほうが良い。OSのインストールにかかる時間も耐え難いものがある。最新の安いモデルで構成したPCを用意して、そこで実験を行うほうが、遥かに効率が良い。あえて太古のシステムを利用する価値を上げるとするなら、ノスタルジックな気分を味わえることと、過去を振り返る目的と、どこまで動作するかテストを行うことくらいだ。そうでないなら、さっさと新しいPCを組んだほうが良い、という結論に達した。

 

 

禁煙4日目

 5月29日から禁煙を始めた。6月からのつもりだったところ、煙草のストックがなくなったので、前倒しで始めることにした。そんなに固い決意ではなく、できればいいかなという程度だった。そういう弱い意思であることは自覚していたので、たぶん無理なんじゃないかなと思っていた。ところが、いざ始めてみると、もう4日も続いている。禁煙の一番つらいのは最初の1日目であることには疑いの余地がない。2日目もまだ辛いだろう。3日目辺りから徐々に楽になっていくものだ。適当に言ってるけど、あながち間違いではないはずだ。

今、警戒しないといけないのは、1本くらいいいよなと油断して吸ってしまうことだ。まだ、吸いたいという衝動がなくなったわけではない。コーヒーを飲むタイミングで、ここに1本あったらどんなにいいだろうと思わざるを得ない。そういうのを、インスタントコーヒーや水道水を大量に摂取してごまかしている。ここで良いコーヒーやミネラルウォーターなどを使っていないところは、今の所、成功しているポイントかもしれない。もし、良いものを飲んでいたら、摂取量から換算していくらかかっているとか、計算に入れていることだろう。そうすると、ちょっと節約するかという気にもなるものだ。そんなことは考えずに、いつもだったら吸っているタイミングで、まずいコーヒーにする。ちょっとでも吸いたい気持ちが湧いたら、まずいコーヒーにする。締めは水道水で流して、何もなかったことにする。こんな感じでやっている。なぜこういうサイクルになったのかはわからない。自然とこうなった。

まだまだ油断はできない状況ではある。それでも、1日目に比べれば、ずっと楽になってきたのだから、まだまだ楽になれるはずだ。そう思いたい。

3000文字ノルマを撤去することにした

 5月は1本も書かなかった。これだけ継続できないとなると、もう抜本的にやり方を変えたほうが良い。まる1ヶ月間、まったく画面に向かう気になれなかった理由は、書くのが大変だからだ。一度書き始めたら、画面いっぱいに文字が埋まるまで、この目安が3000文字なのだが、何かしら文章をひねり出してこないといけない。画面を開くのが億劫になる。意味のない文章をでっち上げるスキルを身につけることを一つの目標ともしていた。そもそも、そんなスキルを本気で欲しいと思っていたわけではない。今となっては、投稿を滞らせる悪影響が無視できない。こんなものはさっさと撤去してしまえば良い。遅すぎたくらいだ。

そういうわけで、これから文章量の目安を設定せずに、思いついたことを、気ままに、書けるだけ書いていくことにする。今回のこの投稿はおよそ350文字だ。これくらいでも十分。その代わり、なるべく高い頻度で投稿するようにしていきたい。

再開と書いておきながら

 もう4月も終わりだ。4月1日に再開すると書いておきながら、この1ヶ月間、一本も書かなかった。いっそ、きっぱりブログはやめてもいいんじゃないかとさえ思える。しかし、そう慌てる必要もないだろう。まずは1日1本という目標を修正することにする。毎日やらないといけないとなると、1日遅れただけでやる気がなくなってきて、1週間も滞納すればもう取り返すのは無理だ、となって、いっそ完全に放棄するかという心境になる。なので、下方修正することにする。

土日に1本ずつくらいでどうだろう。1週間に2本、1ヶ月に8本くらいといったところだ。これなら可能なように思える。そもそも、毎日というと、書くことがない。1週間あれば何かしらネタができるだろう。それをストックしておいて、週末に一気に消化すると行ったスタイルだ。ネタがあればそれほど苦痛に感じることもなくなるだろう。実際のところ、今月、あ、これについて書きたいな、と思うことはちょくちょくあった。そう思ったところで、どうせもう今月は全然こなせていなから、と実行に移すことはなかった。

それだけが問題でもない。あまりにノルマにしている文章量が多すぎるのも原因だ。 4Kモニタで編集画面を開いて、画面いっぱい分を目安としている。これは大体、日本語の3000文字になる。400文字の原稿用紙にすると、8枚分くらいだろうか。結構な量となっている。数行で書き終わるところを、なんとか話を広げて文字数を稼がないといけない。だから、すぐに書いてしまおうという気に慣れない。でも、これは維持しておきたい。短い文章で終わらせてしまうと、あまり深い考察ができずに終わってしまう。文章を書きながら思考を展開するということに少しの価値を見出している。文字にするまで思ってもいなかったことがひらめくことがある。短くしてしまうと、そういう体験ができなくなるので、余計に価値がなくなってしまう。

まだ3分の1くらいしか書いていないのだけど、もうほんとに書くことがない。何を書くべきかというようなテーマではもう何回か書いてきていて、同じことを繰り返すのは避けておきたいので、書く範囲が絞られてしまっている。ふらふらと思考を揺らして、たまたま引っかかった方向へ向かうように進めていくというやり方ができなくなってきている。もうなんでもいいから、さっさと文字を埋めて切り上げてしまいたい。

いつもは何も書くことがないと言いながら、何かしら掘り出してきて広げることができていたのだけど、今回は本当に何もない。話題を変えてしまうのも一つの手だが、4月の終わりを飾る1本なので、今月は何も書かなかったということを強調するためにも、無意味な文章で終えたい。意味のないこだわりだ。プログラミングでは、悪いコードは悪く見えるようにしようとというプラクティスがある。それに無理やり当てはめると、何も意味のない文章は、意味のないように見せるのが良い。飾り立てるために興味深いテーマを持ち出してくるべきではない。こうして意味のない文章で、無意味さを強調するべきだ。

ソースコードと違って、文章はそれほど良し悪しがひと目で分かるほど構造化されていないところがある。要は、実際に読んでみないとその文章が良い文章なのかどうかわからないということだ。無意味な文章であっても、書いているときほど読むときには無意味であることが明らかとならない。今、書きながらこの文章はまったく無意味だな、とひしひしと感じている。しかし、おそらく、後から見たときはそうともならない可能性が高い。へえ、こんなことを考えていたのか、と、まるで真剣に執筆に取り掛かっていたような誤解を与える可能性がある。これは、とりあえず文字数が埋められているから、真面目に取り組んだのだと思わさせる効果があるためだ。ほんとのところは、全然そんなのではない。もう、とにかくさっさと文字数を稼いで、この作業を終わらせてしまいたいという気持ちしかない。そこに何かしら意味を見出そうとするのは、間違っている。早い話、文字数の制限がなければ、今日は何も書くことがない、の一言で終わる内容だ。3000文字というノルマのせいで、後で読み返したときに、過去の自分を大きく見せてしまうような、良くない効果がある。

それでも尚、3000文字のノルマは外したくない。一度やめてしまうと、もう長文を書けなくなるのではないかという不安がある。結果としてできた文章には価値がなくとも、文章を書こうとする姿勢は評価するべきところがある。そう考えると、たちの悪い学校が罰として与える反省文と同質な感じにも思えなくもない。長けりゃいいというものでもない。反省文などの劣悪な学校が与える課題には、健全な成長に対して悪影響しかない。今、この文章を書いているのは誰に指示されたものでもないのだが、もしかしたら自分で自分に罰を与えているのに等しいのではないかという気がしてきている。

そのような判断するのはちょっと早い。なぜなら、今回はたまたま何度も使いまわしているテーマである、このブログの文章を書くことについて書いているから、もう飽きてきていて、楽しみが見いだせないからだ。何かしらもっと面白い、興味のあるテーマであったなら、これほど苦痛には感じなかっただろう。楽しくなければ、やはり反省文にも似たような感情で文章を書かないといけなくて、それは悪影響にもなり得るだろう。

ようやく終わりが見えてきたところで、一つ答えが出たかもしれない。それはとてもシンプルなもので、楽しんで書かないといけない、ということだ。楽しいという感覚を軽視してはいけない。楽しくないことをやるのは、ほとんどにおいて非効率的になる。創作活動においてそれは特に顕著だ。楽しいイコール愉快とか笑えるというわけではない。楽しいと感じるのは、何かしら感情に触れるところがあるときだ。ちょっと解釈が広い気もするが、その方が正しい。楽しいの反対はつまらないだ。苦痛に感じるときがあったとしても、必ずしもそれは対極にあるとは言えない。確かに、今回の執筆は苦痛ではあったが、つまらないという感じではなかった。今の所、ブログを書くのがつまらないと感じてはいないので、まだ続行してもよい。できれば、苦痛からは解放されたい。なるべくそうならないようなテーマを選ぶことにも気をつけたほうがいい。理想的には、文章を書くのが楽しくてたまらないところまで上り詰めることができるといい。それはちょっと欲張り過ぎで、もうちょっと現実的なところから言うと、なるべく楽しそうなテーマを選択することから始めよう。今までの目標であった、1日1本では余裕がなさすぎる。選択の余地がないので、苦痛になるようなテーマを選択してしまっていた。これからはそれを正していけば、なんとか持ち直すことができるに違いない。

再スタート

1日1本を目安に書いていこうと目標を立てて始めたブログだけど、最初の月、2022年12月の1ヶ月しか続かなかった 。年明けてしばらくは続いていた。その後モンハンワールドにはまって、また、同時に仕事が入って、全部終わっても文章を書く気になれず、他にやることあるだろうと、放置していた。忘れていたわけでもなく、4月になったら始めようと考えていた。早いもので、あっという間に4月になってしまった。もうこれ以上先延ばしにするくらいなら、きっぱりとやめてしまったほうがいいくらいだ。そこで、重い腰を上げて書き始めることにした。

 1月〜3月の間、全く文章を書かなかったわけではない。本の感想を投稿するサイトがあって、そこで、なかなか長文の感想を投稿していたりしていた。長けりゃいいってもんでもないが、よくわからん文書をでっち上げるスキルはちょっと上がってきた。そんなスキル必要ない気もするが、何も書けないより、何かしら感じたことを吐き出すのには便利だ。後で見返したとき、真っ白であるよりも、こんなんだったっけ、と記憶を呼び覚ましてくれる効果は高い。直近で読み終えて投稿した感想だと、コードコンプリートの下巻だ。この本は情報量が多く、密度も高いので、何も記録を残さずに読んだらおそらく数日後にはすっかり忘れ去っていることだろう。どちらにせよ、1回読んだだけで身につくような内容ではなく、年に1回位、ざっと読み直すくらいの気持ちでいたほうがいいかもしれない。そういえば、この本は今年の読書計画で、今年中に読み終える本の1冊に入っていた。今の所12冊中2冊クリアになった。ブログをサボっていたせいか、何もしてなかったような感じがしていたのだけど、まずまずの成果ではなかろうか。順調だったら3/12になっているはずだが、1冊くらいなら取り返せるだろう。計画の見直しはまだ必要なさそうだ。

再スタートと言ってもブログを書くこと自体が本分ではなく、これは1日の成果を記録するたのめもので、後で読み返して、この時期はこんなことをしていたのか、と思い出すためだけにある。記録と言っても、日記のようなものではない。なんでもいいから文章に吐き出すことで、そのときの状態を振り返る。出てきたものにはあまり価値がなく、文章をかく作業の方が意味がある。考えていたことを素早く形にするスキルを身につける訓練になるからだ。以前、似たようなことを書いた気がするので、これ以上は書かないでおくことにしよう。この2〜3ヶ月サボっていたのだけど、その間も、「あ、これブログに残しておきたい」というような風に思うことは結構あった。だけど、1回間が空いてしまうと、なかなか筆、というかキーボードだけど、を取る気になれなかった。やはり生活サイクルに組み込んでしまうのが重要だ。大体3000文字で1時間といったところになる。この負荷が結構高い気がする。めんどうくさいな、と思ってしまう。そういう感情がわかないように、もう機械のように決まった時間に自動で書き始めるくらいにしないとだめだ。別に3000文字も書かないといけないというわけでもないが、あまりに少ないと、負荷がかるすぎると、ちゃんと考えていたように思えないし、すべてを吐き出すトレーニングにもならない気がするので、妥当なところではないかと思う。

今後、ちょっと方針を変えたいなという気がしてなくもない。今、YouTubeに動画をアップしていたりするのだけど、全く再生されない。最近のだと、CrystalでPongを1時間で作った、というのをアップして、そこそこ興味深そうなものに思えるのだが、再生回数0という素晴らしい結果になっている。再生回数を稼ぎたいというような欲はあまりなく、適当に作った動画をなんとなくアップしているだけのつもりだった。それでも、以前は10回程度のアクセスがあったのだが、最近アップしたのはまったくの0、あるいは2、3となっている。このブログも似たようなものだろう。さすがにちょっとむなしいな、と思うようになってきた。中身がどうこう以前に、0というのは誰の目にも止まっていないことになる。 Pongできたので、今度はテトリスをやろうと考えているのだが、Crystalでやっても需要はないだろうから、需要の高そうなPythonでやったらどのくらい再生されるのか、実験をしてみたいと思っていた。しかし、おそらく似たような結果になるのではないかという気がしている。同じようなコンセプトの動画を見ると、かなりの再生回数を稼いでいて、目に止まりやすいのかと思っていたのだが、なにか別の要因が有るのではないかと勘ぐっている。

はじめは、1時間で作るということになにか意味があるのか、ゴミみたいなコードを1時間で書くより、3時間かけてきっちり作る方がいいのではないか、そもそも、1発で1時間で完成させることなど不可能で、念入りに準備をして、その記憶をもとに再生するだけの作業になってしまうが、本当にそんなのでいいのか、などとかなり否定的に見ていた。しかし、実際やってみると、なかなか興味深い結果が得られた。ひとつは、1時間というのは本当にきつきつなので、無意識にコードを書けるくらいコードを把握していないといけないということだ。暗記することなど不可能ではないにしても、非効率なので、プログラムの設計と意味を完全に理解しておいて、それをヒントに書いていくという作業になる。もちろん、少なくとも一度は完成させておかないと、いくら設計ができていたとしても、細かなコードをその場で考えていたのでは間に合わないだろう。暗記までいかなくとも、こんな風に書くというのを、ほぼ完全に、覚えるというか、身体に叩き込んでおかないと無理だ。これは、予め用意しておいたプログラムを自分でほぼ完全に把握していないとできないことで、無意味ではないかもしれないと思い始めた。もう一つは、エラーなく正確にコーディングするスキルが必要になることだ。何もプレッシャーがない(かつTDDを採用しない)状態でコーディングをしていると、とりあえず書く、ビルドする、エラーなら直す、というステップを踏むことに躊躇はない。しかし、きつきつの時間だと、ちょっと書きたすたびに、いちいちエラーを出して直していたのではとても間に合わない。なので、ある程度まとまってかきあげて、かつ、それを1発でビルドを通すくらいの心構えが必要になる。しかし、こんなスキルが必要になるのかどうかは疑問ではある。最近、TDDを身につけるためにできることはないか模索しているのだけど、一気に書いて運が良ければビルドが通るなんてのは、まったくそぐわない。今、書きながら思った、否定的な一面だ。

ともかく、YouTubeで再生されない問題がある。方針を変えたいというのは、ブログとと連動できないかということだ。しかし、このブログも相当誰の目にも止まっていないだろうからあまり効果は期待できなさそうだ。そもそも、現代においてブログというものは有効なツールなのかという疑問もまだ捨てきれない。結局のところ、何も期待しないというのが正しいような気がする。

モンハンワールドを始めた

 ちょっとしたきっかけでモンハンワールドをやりたくなった。1年くらい前にプレイしていたデータはアイスボーンの途中で止まっている。プレイ時間は280時間くらいになっている。全く操作を覚えていない。ちょっとやってみたいだけなので、最初から始めることにした。

 このブログでは基本的にプログラミングのポエムを書いていきたいのだけど、ここ1週間ほど大したことをしてなくて、ネタがあまりない。投稿も滞っている。今、1月14日で、まだ3つしか投稿していない。なんとか回収していきたいので何でもいいので今やっていることで書いてしまうことにする。そうはいっても、ゲームプレイについて文章を書くというのはあまりやったことがない。うまく字数を稼げるかどうかはまだ分からない。もうこの時点で結構きつい。それでも、いつものようにキーボードに向かってなんかカタカタやっていれば何とかなるだろうと見込んでいる。

 実を言うとモンハンシリーズにはそんなに思い入れはない。初めてプレイしたモンハンがワールドで、かつ唯一ちゃんとプレイしたモンハンでもある。PS2やPSPの過去のタイトルをプレイしてきていれば、ワールドでの進化にもっと感動を覚えるものであったのだろう。そういうのがなかったので、普通に単独のゲームとしてプレイすることになった。おそらくシリーズで継承されている独特のシステムに最初は戸惑うところがある。慣れてくれば普通に受け入れられるようになるもので、そんなに奇抜なものと言うわけでもない。肉焼きなんかはちょっとした遊びだろうけど面白くて好きだ。こういう要素が各所に散りばめられている。シリーズを通してプレイしてきたならもっとほわっとさせられるところがたくさんあったのだろう。 そういうのを感じ取れないのはちょっと損をしているのかも知れない。

 モンハンは、タイトルが言い表しているように、モンスターを狩るのが主な目的のゲームなのだろう。しかし、他にもやることはたくさんある。単に素材を回収しながらフィールドを探索しているだけでも楽しめる。やろうと思えばいくらでもやることが見つかる。武器がたくさんあって、別の武器を選択するとプレイスタイルががらっと変わるので、使い方を覚えようとするだけでも結構な練習が必要になってくる。プレイスキルを上げようと思うなら色々試さないといけない。全部の武器を強化しようとしたらどれだけ時間がかかるのか見当がつかない。最終的には、フィールドに精通して、装備を強化して、効率よくモンスターを狩るというところに行き着くのだろう。そこに行き着くまでにはいろんなルートがある。単に効率よく装備を強化していくだけではない。その過程でモンスターの特徴を覚えていって、プレイスキルも向上させていかないといけない。ときには何の成果にも繋がらない、だらだらとしたプレイも必要となってくる。そういう何の意味もない時間を過ごす余裕を持つことがこのゲームを楽しむコツなのかなとも思っていた。気になったものは全部チェックしながら、目的と外れたルートに進んでみたりすることはしょっちゅうだった。

 以前のプレイは、そんな感じで効率などは求めないでだらだらとプレイしていたら280時間にもなってしまった。時間が許すならばそれもいいのだろうけど、もう一度同じことをやろうとは思わない。今回しばらくプレイして学んだことは、目的を持って行動するということだ。もし、討伐のクエスト受けたなら、その他のことは無視してしまう。これまでのやり方だと、道すがらに見かけた素材や痕跡なんかに気を配りながら、片っ端から回収して回っていた。そういうのを省くだけでずっと負担は軽くなる。素材回収が目的なら、それだけを目的として探索に出かけるべきだと学んだ。ターゲットを追いかけているときは、途中に見かけるものはガン無視していく。こういうやり方は結構苦手で、他のゲームとかでも途中で落ちているものは片っ端から回収してしまうタイプだ。RPGだと、宝箱はすべて回収しないと気がすまないし、話しかけられる人とはすべて会話しないと気がすまないタイプだ。このプレイスタイルは現代のゲームではあまりに時間を食いすぎる。逆に、無視できるものを徹底的に無視していかないといくら時間があっても足りない。ゲームだけではない、現実においても当てはまる。今はコンテンツが大量に溢れかえっている。ターゲットを追いかける途中で、目に入るものすべてを回収していくのはすこぶる効率が悪い。効率だけを求めてるわけではないのだけど、ターゲットから狙いが外れて、本来の目的を忘れてしまう。ありきたりなよく知られた諺だと、二兎を追うものは一兎をも得ずだ。漁夫の利とか棚からぼたもちというのもあるけど、あまり当てはまらない。ゲームにも現実にもそこら中にそのような利やぼたもちは転がっていて、それらを回収していたらかばんはすぐにいっぱいになってしまう。そんなわけで、目的でないものは徹底的無視してしまう、強い意志を持つことが大事だ。これを鍛えることは今後のゲームプレイにも現実でも役に立つものになりそうだ。

 そんなわけで、モンハンワールドをプレイすることはただ楽しいだけでなく、なかなか実りのあるものになりそうなのだけど、懸念するところもある。それは、中毒性が高いということだ。ゲームとしては時間を忘れてプレイさせられるというのは大成功している証だとも言える。プレイヤーにとっては、現状のように、ブログの投稿を10日近くも怠るまでにプレイしてしまうというのは大問題だ。正しくは、プレイし始めたのはここ3日位前なので、全部モンハンのせいにするのは適当ではない。でも、少なくともその3日はモンハンしかしていなかった。今はまだ序盤で、ストーリーを進めている段階で、オンラインの要素はまるでない。それであってすでに現状のように、現実に支障が出るほど、というとちょっと大げさだけど、丸々1日を費やすほどまではまりこんでしまったので、制限をかけたほうがいいだろう。このゲームの厄介なところで、1日に2時間程度とかだと全然進まない、進んだ気がしない。進んだ気がしないと楽しくないので、楽しくなるまでやり込んでしまう。これは良くない。単純に、2時間やって終わりにするという制限をかけるくらいなら、いっそやらないほうがいい。2時間でなにか成果を得られるようにすると良いかも知れない。なにか得られれば、やってやったという感触から、楽しかったという気持ちも湧いてくることだろう。そんなことが可能であるのならばだが。そもそも、ちょっとやって見るだけのつもりで始めたものだ。年末に立てた計画で、今年中にプレイするゲームとして何本も後に控えている。このままの調子でプレイしていたら、確実に計画倒れになる。どの辺で見切りをつけるかもちゃんと考えておかないといけない。せめてアイスボーンのストーリーをクリアするところまでやりたいという気持ちがないでもないが、それだけでもかなり時間がかかることが予想される。早いうちに決めてしまったほうが良い。

MSI Vigor GK30 COMBO WHITE JP

 新しいキーボードを買った。少し前、1ヶ月くらい前に、US配列のキーボードとJP配列のキーボードが入り混じっていて混乱するのでどちらかに統一したいということを書いた。あのあと、ラズパイ用に用意していた1000円のJP配列の無線キーボードにして、JP配列に戻れるかどうか様子を見ていた。やっぱり打ち間違いとか、そもそもUS配列のが打ちやすいとかある。それでもなんとかなるかなという感触は得られたので、JP配列で統一することにした。1月5日木曜日に、良いのがあれば購入する予定でPCショップに行ってきた。大体は今使っているのと同じ、ARCHISSのMaestro FLというやつをもう1本買うつもりで行った。ただ、事前にアマゾンで相場がいくらか情報を仕入れてあって、以前同じ店で買ったときよりも1割程度安くなっていたので、今回その店に行ってもそれより安くなっていることはないだろうなと思っていた。それどころか、その商品にしてもおそらく店頭よりアマゾンの方が安いのだろうと思っていた。割高になっても店頭で買うのかどうかは、どの程度価格差があるか次第という気持ちでいた。

 行ってみて、まず本命のMaestro FLがいくらかを確認しようとしたが、置いてなかった。前回来たときはあったのだけど、なくなっていた。テンキーだけあったので、一時品切れと行ったところだろうか。アマゾンでも買えるので買い逃したという感じではなかった。一応、いくらぐらいなのか確認して、あまり価格差がなければここで購入という感じだったので、ないならないでよかった。この店はキーボードの品揃えはなかなか豊富で、前来たときはREALFORCEも置いてあったのだけど、それもなくなっていた。実用重視のだとFILCOがあったけど、同じくらいの価格帯なら気に入ってるMaestroのでいいやと思いパスしておいた。

 別に予定が狂ったと言うほどでもなく、他にも種類豊富なゲーミングキーボードを鑑賞していくことにした。 むしろこれが楽しみで来たとも言える。ゲーミングキーボードって何かと言うと、正確な分類基準は分からない。ただ、大体は無駄に光るやつがそうだと思っている。光らないのにゲーミングキーボードと謳っているのは見たことがない。中で一番目を引いたのは、ROCCATというブランドのもので、価格もそこそこで、かなり奇抜なデザインをしている。試しにちょっとキーを押してみると、よく分からない。実際にPCの前に置いてやってみないと、ちょっと押しただけでは分からなかった。打鍵感は、他のどのゲーミングキーボードもいまいちピンとこない。1万後半するようなのでも、こんなもんなのかなと疑問に思ってしまうところがある。使ってみれば値段相応なのかもしれないとも考えた。そこに、REDRAGONというブランドのが目に入ってきた。6000円くらいで、触ってみるとみると悪くない。変にダサくてかっこいいような微妙な名前なのが気に入ったので、これにするかと思ったけど、一応、もしかしたらマナー違反かも知れないが、アマゾンを調べると同型が2000円くらい安く買えるのでやめておいた。6000円中2000円はちょっとでかい。今調べてみると、セール中で4000円になっているようだ。どうもJP配列がないので選択肢からは外れてしまう。

 最終的に選択したのは、MSIのもので、キーボードとマウスがセットになっているものだった。去年末に組んだPCが、マザボとCPUクーラーがMSIのもので、ケースは白になっている。ケースのサイドパネルが透明で、ちょうどCPUクーラーにMSIのロゴでもあるドラゴンみたいなのがフルカラーで光って存在感を醸し出している。目をつけたキーボードとマウスも、同じような白にフルカラーで光って、示し合わせたようにピッタリマッチしているように思えた。マウスも前の使いまわしなので、ここらで気分良く買えておきたいとは思っていた。欲を言えばマウスは無線にして欲しかった。それでも、デザインと価格でこれだけ要求を満たすものに遭遇できたことは幸運だっただろうと、それに決めた。またマナー違反にはなるだろうけど、アマゾンを調べるとやはりアマゾンの方が2000円ほど安いので、申し訳なく心苦しいのだが、買わないまま店を後にして、自宅から購入した。6000円ちょうどくらいだった。キーボードの打ち心地がどうこうよりも、デザインと価格をみれば超お買得だったと満足した。

 数日して、昨日届いた。開封して鑑賞してみると、思ったほど美しくはない。白と言ってもプラスチックっぽい白で、あまり高級感がない。実際、高級ではないのだから無駄に光沢があったりして無理に高級感を出さなくても良いだろう。光り方はきれいだし、マウスも統一感があるし、PC本体との相性もバッチリだ。肝心の打ち心地なのだけど、これがすごく微妙だ。ある程度は許容できると思っていたのだけど、その許容ラインギリギリと行ったところだろうか。US配列で使っていたのも、高いものではなかったのだが、そこそこのうち心地で、それと同じくらいだったらいいなあと期待していたけど無理だったようだ。つなぎに使っていた1000円のよりはずっとマシなのは当然だとしても、決して快適とは言えない。ほんと合格ギリギリラインの感じだ。キーを押し込んだとき、最後にグニャッとしたような感じで、押し込んだという感触が弱い。慣れたら気にならなくなるのかどうか分からない。マウスは前のよりちょっと小さい感じがするくらいで、普通に使えそうだ。有線なのはちょっと気になるところではある。

 MSIは信頼しているブランドなので、たとえキーボードが本業ではなくとも、安くてもそこそこのクオリティを求めてしまっていた。もし、これをデザインや今のPCとの相性を無視して買っていたのなら、とても納得のいくものではなかっただろう。今回の特殊な状況においては、打ち心地の悪さを無視できるくらい、デザインと相性が良いので買って良かったと思えるものだ。もしこの機を逃していたら、ずっと買っとけばよかったと後悔していたことだろう。しかし、このうち心地でこれからずっとやっていかないのかと思うとちょっと残念な気持ちがないかと言うと嘘になる。できれば、少しくらい価格があがってもいいから、もうちょっとクオリティを上げてほしかった。デザインとPCとの相性が完璧なだけに惜しい。

 今回に限って言うなら、打ち心地よりも見た目が勝っているので、失敗だったということは全然ない。しかし、もし、ただお買い得そうに見えたからといって購入に踏み切っていたのなら、そうではなかっただろう。おそらく、あまり安いものを買うべきではないと、残念に思っていたことだろう。そう考えると、今回は公開することもなくして勉強代も回収できたレアなケースだ。物品そのもの以上に、さらにお買い得な買い物だったとみなすことができる。学んだこと、キーボードの購入時に忘れていけないのは、安いキーボードにうち心地を期待してはいけないということだ。その家心地が気に入る、気に入らないの問題ではなく、そこまでの段階に達していない。微妙な違いではなく、明らかに安物感のする感触になっている。目安としては、1万以下のものは避けたほうがいいだろう。それ以下のものを買うときは、それを分かっていて買うようにすることだ。もし分かっていて買うのなら、話は別となる。間に合せのものが欲しかったとか、メインで使うものではないとか、そういうものが必要な事情というのはいくらでもある。すべてのPCに高いものを用意する必要などまったくない。しかし、メインに使うもので、打ち心地を求めるのなら、決して安物買いはしないほうがいい。別に今回の買い物が失敗だったわけもないし、むしろ良い買い物だったのだけど、そういうことが学べた。

正月がまだ終わらない

 毎日書こうと目標を掲げたのに年明けからサボってしまった。もう7日だ。正月は何をしていたのだろう。少し予定が入って潰れた日があった。とは言っても2日間だけで、今日を除けば4日間はフリーだったはずだ。何もしてなかったということはないだろう。ちょっとリハビリも兼ねて、また1日分稼ぐために振り返ってみる。

 結構寝てた。最近あまり経験してなかったけど、正月だということで結構遅くまで起きていた。明け方の4時とか5時とかまで起きていたりした。それで、昼の12時過ぎまで寝ていたりしてた。起きても頭がぼーっとして、またそのまま仮眠のつもりが夕方まで寝てたり、1日12時間くらい寝ていた。普通の休みの日だったら起きたら夕方だったとか、絶望的な気分になるが、正月はむしろ清々しい気分だ。思えば、去年はそんなのなかったな気がする。たまにはこういうのもいい。正月だけだったらいいんだけど、まだそういう気分が抜けていない。もう今日は1月8日で、日曜日といえどとっくに通常運転に戻っていけない日になっている。昨日なんかはひたすら寝ていた、18時間くらい寝ていたのではないかと思う。12月頑張っていたのが嘘のように無駄に過ごしている。ここらへんで気持ちを切り替えるためにも無駄に字数を稼ぐブログを頑張っていこう。これやっている間はなんとなく何かをやった気になれる。あとで見返したときに、なんかやってだんだな、という錯覚に陥ることができる。それって逆効果何じゃないかという気もする。1行だけずっと寝てた、とだけ書いて投稿していたら、ああ、何もしてなかったんだなというのがすぐ分かる。毎日の記録を書いていく目的であるなら、そっちの方が、わかりやすくていいかも知れない。でも、このブログではそれは目的としていない。そんな惨めな現実をみても、今日は頑張ろうという気にならない。錯覚でもいいので、後から読み返して、こんなに奇妙で面白いことを考えていたのか、今日はもっと面白いことを考えられるかも知れないと思わせてくれるとなれるほうが良い。ずっと寝ていた、だけでは後に繋がらない。 それに、単なる記録としては、別のとこで日記を書いていて、それがその役割を果たしている。寝ていたという情報はそこから得ることができる。ここでは、寝ていただけだけど、そこからどうやって文章をひねり出すかに挑戦してみたい。実際、寝てたというだけの事実から、投稿1本当たりのノルマの3分の1程度をもう書き出すことができている。今まではこんなことに挑戦したこともなく、文章を書くのは苦手としていたことだった。こうやって、無意味な文章をでっちあげることができるようになったのは、少しは上達していることとみなしてもよいのだろうか。

 年始の大半を寝て過ごした。その中でもなにかやったことはないだろうかを思い返してみる。

 とりあえず、Rustの本を1冊読み終えた。年末に立てた今年の読書計画の、2023年に読み終える13冊のうちの1冊だ。1週間目の時点で読み終えることができた。なかなか良い出だしではないだろうか。さっき書いたとおり、今年入ってからの1週間はほとんど寝ていた。そんな状況の中で、すでに1週間足らずで1冊読み終えることができたというのは、良いニュースだ。今年1年のボーダーラインとして13冊は必ず達成したいと計画。このリストに変更は加えないつもりだ。これにプラスする形で、読んででおきたい本を挟んでいくことが可能かも知れない。小説を除いて、本来なら70冊くらい読み終えたいのがあるのを、これまでの実績から不可能だと見積もって13冊までに減らした。13冊というのは不本意な数だ。読みたいもの、もっというとさっさと片付けてしまいたいものはもっとたくさんある。大体1冊1ヶ月をみていた中、1周間た足らずでさっそく1冊片付けられたので、13冊は十分達成可能であることが分かった。しかし、油断はできない。今回読み終えたものは、優先度が高いというわけではなく、去年末に中途半端な状態だったから、とりあえず読み終えてしまおうという感じでリストに加えたものだった。必読というような内容でもなかった、というのは予め分かっていた。 ただ、今年はRustを中心にやっていくので、仮にリストに入れてなくても読んでしまうことには変わりなかっただろう。そういう状況を考慮すれば、やはり必読とカウントしても間違いではなかったと言える。でも、やはり本番はこれからだろう。1000ページ近い重厚なのが5冊は控えている。逆に考えれば他のはそれほど重厚でもないということだ。ライトなのから攻めていくか、優先度が高いのから攻めていくか、あるいは並行して処理していくか、選択は自由だ。ともかく計画を立てて見直しながらやっていくことが重要だ。現段階では、まず小手調べの1冊を読み終えたというところだろう。

 目的を持って何かを達成しようとして取り組んだのはそれだけだったかも知れない。あとはなんとなく、気の向くままに過ごしていた。その中で、分類可能な活動は、YouTubeを見てたことと、ドラクエVIを進めていたことだ。面白いから悪い時間の過ごし方ではないのだが、どちらも計画して始めたことではない。ぼーっとしてたら、なんとなく手が動いてしまった。無計画なのは良くない。どちらも面白くて、気を抜いたら今後もついつい手を出してしまいそうに思える。有意義な時間を過ごせたと考えればいいんだけど、その他の活動にまで影響してしまうのは問題だ。ゲームは今年中に50本くらいプレイすることになっている。全部をクリアするまでやるというのは不可能な数だ。とりあえずプレイするだけで、その中で最後まで進めるかどうかを判断するまでが目標だ。いくつかは最後までやるだろう。ドラクエVIはそのうちのひとつにまず入るのは間違い。すでに25時間くらいプレイしている。ここで中断するという選択肢はない。だったら手を出してしまってもそれほど計画から外れているということはない。ただ、なんとなく手を出してしまったというのが懸念する行動パターンだ。費やした時間の量が問題なのではない。最初から、今日のこの時間はプレイする、と決めてやるのならば、マル1日やっていようが、そんなに問題とはならない。実際には、毎日23時から24時を使って書くはずだったこのブログをほっぽりだしてプレイしていた。時間を忘れるほど夢中でやっていたというわけではなく、23時だから書かないといけないな、と自覚しているのに、書くの面倒だなあ、もうちょっと進めたいなとだらだらとプレイしていた。これは良くない。今の早い段階で気づけたのは不幸中の幸いだっと言うことにしておこう。YouTubeはもっと深刻だ。普段は猫とBGMの動画くらいしかみない。どういう経緯か覚えてないのだけど、ある動画にたどり着いた。中毒性が高く、無限にみてしまう。たぶんこれからもちょっくちょく見ていくことは避け難いかも知れない。これもゲームと同じで、まったく予定に入っていない時間を使ってしまうのがやはりまずい。本音はあんまりまずいと思ってない。ドラクエみたいに25時間も費やしてはいないはずだし、少なくともPCに向かっているので、さっと作業を切り替えることも可能だ。それは楽観視しすぎだ。PC向かっていようがいまいが、手と思考を稼働させていなかったら関係ない。これもまた、早い段階で気づけてよかった。さくっと気持ちを切り替えて、今日から通常モードに戻そう。

 年が明けた

今年はちょっと去年とは状況が違う。具体的なことは書かないでおくけど、これまでのようにのんびりとプログラミングをやっているだけではいけない。具体的な成果が求められる。具体的な成果ってなんなのかというと、何でもいいけど、特にほしいのは完成されたゲーム作品だ。いつものように、本を読んでそれをで学んだ知識を活かしたデモを作って終わりでは全然足りない。ちゃんとプレイして面白いと思えるようなものを作らないといけない。そのためには、絵とか音楽とかもちゃんと作らないといけない。アーティスト志望ではないので、あまりに高いクオリティを求める必要はない。でも、適当にマウスで書いたやつや、マイクを転がして録音しただけのような適当なもので間に合わせることはできない。絵など普段全く練習してないし、グラフィックスツールの使い方も、モデリングツールの使い方も覚えないといけない。ツールの使い方を覚えるだけならそれほど難しくはないと見込んでいる。しかし、基礎的な絵の書き方やモデリングの技術は問題になる。1日や1週間と単発的に練習した程度ですぐに身につくものではない。クオリティを求めないと言ったけど、できるだけのことをして、それなりに特徴のある、味のあるようなものにしたい。音楽はゼロからスタートというわけでもない。楽器をやってきていて、最近離れていたけど、そこそこ練習もしてきていた過去がある。毛の生えた程度に知識もある。その経験を活かして、ゲームに使えるような楽曲やサウンドエフェクトを作る工程は、絵に比べればイメージができる。機材も少しは揃えてある。こういう背景を考えると、プログラミング、グラフィックス、音楽とゲームの基礎となる三大要素のうち最もスキルが欠けているのはグラフィックスということにになる。

 それより大事なものもある。個々の部品だけでなく、ゲームデザインを軽視してはいけない。ゲームデザインが何を指しているか、一般的な解釈は知らない。今言おうとしているのは、ゲーム全体の出来上がりを考える工程のことだ。大体のゲームの完成予想図がないと、どれだけの量と質が絵や音に求められるのかがわからない。それでは、どれだけスキルが不足しているのかも分からない。無限に時間があるのならば、ひたすら練習してクオリティの高い絵や音が用意できるようになるまで頑張ることができる。現実はそうではない。これまでプログラミングの修行にかけてきた時間と同じように、絵や音に対してかけることもできない。ゲームデザインが重要なのは、ゲームを面白くするためという本来の目的に加えて、どれだけのスキルが要求されるかを先に把握しておくためだ。いわば目標値の設定が必要だ。スキルポイントがどれだけ不足しているのかを確認して、そのために必要なレベル上げを行って、得られたスキルポイントをそこに分配するという戦略だ。実際にはこんな機械的に行えるわけではない。絵や音のスキル値がどれだけなのかを視覚的に把握するのは難しい。そこで、ゲームの完成予想図を明確に持っていることが助けとなる。思っているよりひどい絵だったら、それしか用意できないのであれば、不足しているということだ。

 制作が進んでいって、最初に求めていたものより要求が高くなってしまったとしても、悪い傾向ではない。そういう場合の原因は、最初のデザインが思っていたほど良くなかったのかもしれない。もうちょっと工夫すればもっと良くなるというところが見えてきたということだ。少なくとも、スキル値としては要求していた値を満たしたということになる。自分の性格では、少なくとも全く経験のない絵という分野に置いては、最初にデザインするときには、あまりに無茶な要求をしないのではないかと思っている。いきなり、世に出回っている一級品のゲームのような美麗な絵を用意しようなどと計画するとは思えない。おそらくは、技術的にはかなり初歩的なところからスタートするのではないかと思う。そこから段階的に、もっと良くなるためにはどうしたらいいかを考えて、積み上げていく形になると思う。その都度、ゲームデザインを改良していくというステップを踏むことになる。

 ゲームデザインについてちゃんと学ぶ必要はあるだろうか。そんなに構えて形式的に学ばないといけないというふうには思っていない。ヒットするゲームを考えるとなると、また話は別になるだろう。戦略的に、徹底的にゲームを分析しないといけない。なんとなく面白そうなゲームを作るというのでは、宝くじを当てるようなものに等しい。これまでの過去のヒットしたゲームを調べて、現在のゲームの状況も調べて、それらを加味した上で、これから作られるゲームにどのように取り入れていくか、しかも、全く新しいプレイ感が得られるようなオリジナルの要素とどうやって融合させるのかが考えられて行けなければならない。プレイヤーのターゲット層や広告についても考えないといけない。ゲームをヒットさせるというのは、およそ不可能にさえ思える。

 ヒットするゲームを生み出そうなどとだいそれた考えは持っていない。じゃあどんなゲームを生み出そうとしているのかというと、よく分からない。少なくとも単なるプログラミングのデモ以上のものを作りたいとは思っている。また、ヒットと呼べるまではいかなくてもいいけど、誰もプレイしないようなゲームでは満足できない。誰かがプレイしたかどうかなど、どうやって把握するのだろうか。売り物にしようとは今の段階では考えが及ばない。将来的にはそうでありたいと思っている。例えばPS Storeに並ぶような、インディーゲームの市場はどうなのだろう。個人でできる、ゲームを世に送り出すという場所はそのくらいが限度ではなかろうか。他のルート、例えばスマホで100万ダウンロードのようなのは、宝くじに近いものを感じる。もっとも、スマホのプログラミングは余り楽しくないので選択肢にない。それはいいとして、どのくらいの人にプレイしてもらいたいか、という目標もある程度は考えておかないといけないだろう。まだ何も作っていないのにそんなことを考えるのは、妄想に過ぎないのだろうか。だいそれた考えを持つのは良くない。広告付きのゲームを作って100万ダウンロードを目指すなど、そんなのはどうでもいい。段階的にやっていくのがいいだろう。まずは、小さくても完成されたゲームを作ることだ。

 完成されたゲームを作るのと同時に、これまでやってきた、プログラミングのデモのようなもを作って修行することを中断することはしたくない。でも、同時進行というのは難しいのだろう。デモを作るのは局所的なスキルを磨くことにはなるのだが、プログラミング全体のスキル向上にはあまり役に立たない。現実のプログラムには、デモプログラムには現れない、現実を反映した複雑な構造が入り込んでくる。こういう複雑さに立ち向かっていかないと、現実のプログラムをプログラミングする能力は磨かれていかない。だから、今年は現実のプログラム、大体はゲームだけど、を作り上げることを中心に据えていくのを目標としよう。

本の所有について考える

 一昨日と昨日で、来年の読書計画を立てた。2023年中に読み終えたいものをピックアップして、小説を除くと12冊となった。十分少ないように思える。所有しているもので、未読のものがおよそ1000冊あるので、1%ほどにしかならない。このままペースで行くと、今所持している本を読み終わるのに100年かかることになる。未読の本が溜まっていると、精神衛生上も良くない。何らかの対策が必要だ。

 未読の本を減らす一つの方法は、速読と呼ばれる読み方で、次々にページをめくっていって、大体の様子を把握してしまうことだ。そうして、とりあえず読んだとマーキングしてしまう。何度かこの方法は試している。一旦読み終えたことにして、じっくり読む価値があるかどうかを判断する。読む価値があるなら完了とせずに、未読のままにしておく。そして、いつか読むと記憶しておく。この方法はあまりうまく行かなかった。ちゃんと読んでないのに、読んだとしてしまったものと、きっちり読んだものとが入り混じって、わけがわからなくなる。それに、眺めるようにしてページをめくっていっただけでは、本当に読むべき価値あるものなのかどうか、判断が使いこともある。それよりも、わざわざお金を払って購入しているので、そのときに少なくとも一度は読む価値があると判断しているはずだ。それを、未読の本が溜まっているからと読む価値がないとしてしまうのは、未読を減らしたいから無理にそう判断させられてしまっている可能性が高い。

 速読は合わない。数をこなすこと自体には意義を感じない。読んだからには何かを残したいと思う。しかし、今のペースでは来世まで本を抱えていかないと読み終えることは不可能だ。もう、思い切った決断をしてしまう方がいいかも知れない。思い切って、何年も放置しているような本には引退してもらうことだ。本を買うことよりも、捨てることは簡単なことではない。購入するときに選別しているので、不要なもの、無関心なものというのは殆どない。何かしら読みたい部分が残されている。それらを回収しないままに手放す決断をするのはなかなか難しいことだ。多分、人生の最後までずっと持ったままでいるんだろうなというようなものまで、吟味する必要はない。それらはそのままでいい。だめなのは、それらと同列に本棚にそこまでは必要ないと思うような本が入り込んでいて、同じ1冊とカウントされていることだ。これがおかしい。今、未読がおよそ1000冊あるという情報が利用している本棚サービスで分かる。この1000冊という数字に本当に意味はあるのだろうか。1回読んでお終いの本、1日で読み終わる本と、最後の最後まで手放さいであろう本を同じ1冊としてカウントするのはやはりおかしい。

 あと、未読をどうやって消化するかという問題ではないのだけど、本を持ちすぎるのは良くない。読み終わったら、一つの判断を下すべきかも知れない。もう一度読むことがあるだろうか、読みたいと思うだろうかという判断だ。未読の本が山ほどある中で、2回読みたいと思えるようなのは貴重だ。こういうのは持ったままにして、本棚に飾っておいても悪くない。大体、1冊の本を通して知っていることしか書いてないというような本は殆どない。最初に選択する場面でそういうのは除外しているはずだからだ。その情報が本当に価値のあるものだった、十分に良い形で入手できる情報なのかどうかを判断するのは結構難しい。もう一度その情報を読みたくなる可能性は捨てきれないことが多い。そのしがらみを振り切って、なんとかして別れを告げないといけない。決断ができないまま、ずるずると持ち続けてしまうのはあまり良くない。たとえ一度読んだので、消化できていると思えることがあっても、まだ持ち続けているのならば、それはまたどこかで参照することがあるかも知れないという気持ちがあるからだ。

 コレクションが目的になってはいけない。関心のある分野の本が本棚にあると、確かに安心する。必要ならばすぐに手を出して、その情報を仕入れることができるという安心感だ。簡単な情報ではなく、熟練度を必要とするものでも、すぐに習得できるようなものではなくとも、いつかは、ちゃんと時間をかけて取り組む準備ができていると安心できる。コレクションのようにどんどんと本が溜まっていくのは、その安心感を得るためだと思う。何も準備ができていないと、ガイドブック無しで海外旅行をするような不安がある。ちょっとした保険のようなものだ。いつからか、本を所有しているからその分野の入口に経っているはずだと思いこむような習性が出てきているように思える。

 本を持ちすぎることの何が悪いのだろう。 なにか弊害はあるのだろうか。まず、本棚のスペースを浪費する。本棚にいっぱい本が並んでいるのは、良い面と悪い面がある。きれいに、必要な本だけが並んでいるのならば良い。無秩序に、どうでもいいようなものまで乱雑に並んでいたら悪い。部屋のインテリアとしての効果を無視しないほうがいい。美的感覚に反するものが並んでいれば、多かれ少なかれ、何かしらその場での活動に影響をもたらす。必ずしも何もないのがベストというわけではないが、集中力を乱すような、見にくい状態にしておくのは良くない。また、脳みその記憶領域を浪費する。あの本は少有していたとかしていないとか、何かしらにつけてついて回ることになる。亡霊のようなものだ。もっといろんなことを知りたいと思うのは結構なことだ。しかし、やり過ぎは良くない。程々なところでとどめておくよう自己制御できないと、いつまで経っても本に頼って、自分で考えて答えを出すということができなくなる。記憶領域を浪費すると、本来は自分で考えれば良いものを、考えるのに使われる領域まで、本の所有状況を管理するプログラムに使用されてしまっていて、本来の自然な形で回答を出そうとしなくなってしまう。記憶領域はクリーンに保っておかなければならない。

 自分にとっって、もっと大事なことは、読書自体が目的になってはいけないということだ。読書家になろうとなどしていない。本を読むというのは、単に情報を引き出すというだけでなく、その行為自体が一つの体験として価値を持つ場合もある。それは貴重な役割ではあるのだけど、自分には必要ない。もっぱら体験をすることによって得られる結果の方が大事だったりする。ゲームをプレイするのと、本を読むのは全然違ってくる。ゲームをプレイしているときは楽しいと感じられないといけないけど、本を読むときはそこまでは求めていない。もちろん、楽しい読書であればそれに越したことはない。ただし、それが再優先事項ではない。楽しいの質も色々ある。内容自体は楽しいものを意図して書かれていなかったとしても、新たな情報が手に入る、高揚感のようなもので楽しいと解釈できるようなことも多い。そういう解釈を含めると、最初は読み終わったあとの結果を重視しているのだけど、読んでいると楽しいと感じるようになることは多い。そういう感覚の中毒にならないように気をつけたい。